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瀬名姫(築山殿)の生涯は?家康の正妻で最後はどうなる?

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瀬名姫(築山殿)の生涯は?家康の正妻として最後はどうなる?
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瀬名姫(築山殿)の生涯について紹介します。

2023年の大河ドラマ「どうする家康」で有村架純さんが演じる、家康の正妻「瀬名」。

彼女はどのような生涯を送ったのでしょうか?

「どうする家康」では、瀬名姫は松本潤さん演じる家康の初恋の人として描かれています。やがて二人は結ばれて、今川家の城である駿府城で幸せに暮らします。

しかし桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られ、状況は一変。

わずか3話で、瀬名姫と家康は危機的な状況に置かれてしまいます。

そんな瀬名姫ですが、史実ではどのような生涯を送り、そしてどのような最後を迎えたのか詳しく調べてみました。

ドラマの続きも気になりますが、史実はかなり衝撃的でした。

瀬名姫(築山殿)の生涯が気になる人は、覚悟を持って読み進めてくださいね。

目次
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瀬名姫(築山殿)の生涯は?最後はどうなる?

瀬名姫(築山殿)の生涯はどのようなものだったのでしょうか?

まずは年表にまとめてみます。

①瀬名姫(築山殿)の生涯年表

年代年齢(推定)
1539年〜1540年(推定)出生
1557年徳川家康(松平元信)と結婚
1559年長男・竹千代(のちの松平信康)を産む
1560年第2子である長女・亀姫を産む
1560年桶狭間の戦いで今川義元が討たれる
1562年家康と信長が同盟を結ぶ(清州同盟)。そのため今川の怒りを買い、瀬名の両親は今川氏真の命で自害。瀬名は岡崎に戻るが、城内には入れず。
1567年息子の信康と信長の長女・徳姫が9歳同士で結婚
1570年岡崎城への入城を許可される。家康、岡崎から居城を浜松城へ移す。
1579年徳姫による「十二ヶ条の弾劾文」により、家康の名により殺害される。享年は推定39歳。長男の信康も切腹。
瀬名姫(築山殿)の生涯年表

驚いたことに、瀬名姫(築山殿)は39歳で夫である家康の命で殺害されています

「どうする家康」では、初恋の相手として家康に愛されていた瀬名。こんなことになるなんて、とても想像できませんよね。

瀬名の生涯を、さらに詳しく見ていきましょう。

②出生から結婚、そして桶狭間へ

瀬名姫は、今川家の家臣である関口家の娘として生まれます。母は今川義元に連なる家の出身だと言われています。

今川の人質である瀬名姫と家康が結婚したのは、史実では政略結婚でした。

結婚後、長男である竹千代(のちの信康)と、亀姫という2人の子どもを授かります。

しかし桶狭間の戦いで今川義元が討ち死にした後、家康は今川の敵方である織田信長と同盟を結びます。これが清州同盟です。

この同盟は今川の怒りを買い、瀬名姫の両親は自害することになります。

③息子・信康の結婚と、家康との別居

その後、瀬名姫は子どもたちを連れて家康がいる岡崎城に向かいますが、城に入ることは許されませんでした。

理由は諸説ありますが、家康の母が瀬名が城に入ることを許さなかった、という説が印象的です。

この時、瀬名姫は岡崎城近くに居を構えて住んでいました。住んでいた場所の地名から「築山殿」と呼ばれるようになります。

やがて長男の信康は、わずか9歳で信長の娘である徳子と結婚することになります。これは織田信長の命令で行われた政略結婚でした。

そして1570年、信康が正式に嫡子として認められ、岡崎城を与えられた際に、瀬名も生母としてようやく城に入ることが許されたのです。

しかし夫である家康は、岡崎城を息子にまかせ、浜松城へ移ります。

瀬名は後継である息子のもとに残ります。ここで夫婦が別れてしまったことが、のちの悲劇に繋がったと言われています。

④息子の妻・徳子との確執、そして瀬名の最期

信康の妻である徳子は、世継ぎである男の子を産むことができませんでした。

これを心配した瀬名は、自分の侍女を側室として息子のもとに送り込むなど、世継ぎを作るための具体的な行動を取っていきます。

これを信康の正妻である徳子がどう思ったか。

想像の域を出ませんが、気持ちの良いことではなかったでしょう。

そして徳子は、父である織田信長に「十二ヶ条の弾劾文」を送ります。

その内容は、夫の母である瀬名の悪事を連ねたものでした。

瀬名が徳子に対し、わざと悪評を流すなど侮辱したこと、瀬名が唐人の医師と密通していること、そして瀬名が敵方である武田氏と密通していることなど、瀬名の悪事を次々に書き連ねます。

これを読んだ信長は激怒。家康に、瀬名の殺害を命じます。

妻を殺すことを決意した家康は、家臣に命じ、岡崎城近くで瀬名に自害を迫ります。

しかし瀬名はこれを拒否。やむなく家臣たちは、独断で瀬名を斬首します。

息子の信康も自害を命じられ、二俣城で自害することになるのです。

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家康と瀬名姫(築山殿)の仲は良かった?

壮絶な最期を遂げた瀬名姫ですが、家康との夫婦仲は良かったのでしょうか?

調べてみましたが、二人の夫婦仲を示す資料はありませんでした。

しかし瀬名姫は、美女であったことが知られています。桶狭間の戦いが起きるまでは、駿府城で仲睦まじく新婚生活を送っていたのかもしれません。

家康と瀬名姫、二人の関係については想像することしかできませんが、「どうする家康」のような光景が現実にあったのかもしれませんね。

戦国の世に翻弄された、悲しい運命の二人だったのでしょうか。

「十二ヶ条の弾劾文」では、瀬名姫は悪女として描かれています。

江戸時代の文献を見ても、瀬名姫は嫉妬深い悪女として書かれていることが多いようです。

しかしこの文献、あくまで「江戸時代に書かれたもの」なんですよね。江戸時代は徳川の御代であり、徳川のことを悪くいうことはできませんでした。

つまり瀬名姫が死んだのは自業自得、もしくは息子の嫁である徳子が原因、ということにしなければならない事情があった可能性があるんです。

家康が瀬名姫を殺害するに至った経緯は、いろいろな可能性が考えられます。

瀬名姫との間に生まれた息子の信康は、武芸に秀でていたと言われています。

嫁姑の確執からはじまり、信康につく家臣と家康につく家臣、2つに分かれることで内部分裂が起こる可能性を消したかったのでしょうか。

すべて想像の域を出ませんが、今後「どうする家康」では家康と瀬名姫、二人の仲がどのように描かれるのでしょうか?

注目して見ていきたいと思います。

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家康と瀬名姫(築山殿)の子どもの生涯は?

それでは、家康と瀬名姫(築山殿)の間にできた子どもたちの生涯はどのようなものだったのでしょうか?

家康と瀬名姫(築山殿)の間には、一男一女が産まれています。

それぞれの生涯を見ていきましょう。

①長男・信康

長男で世継ぎである信康は、先に述べたように家康に自害を命じられ、20歳〜21歳で亡くなっています。

信康は武芸に秀でており、武田勝頼(信玄の息子)と戦った長篠の戦いなどで数々の武功を挙げています。

しかし一説によると勇猛果敢な青年らしく、他者の忠告を聞き入れないところがあったようです。

この性格が、父である家康との確執につながった、という考え方もあるんですね。

気性もかなり激しかったようです。この性格が災いし、父である家康と不仲になり、それが謀反を疑われることに繋がったのでしょうか。

②長女・亀姫

二人目の子どもは、長女である亀姫です。

亀姫は長篠の戦いの後、三河の武将である奥平信昌の元へ嫁ぎます。これは戦で武功を挙げた信昌への、家康からの褒美としての結婚でした。

その後、信昌は関ヶ原の戦いでも活躍し、10万石を与えられます。亀姫は夫との間に4人の男の子と1人の女の子を産み、正室として家を支えます。

一方、「家康の長女」として徳川家内での亀姫の立場は強く、家康の側近として腕を振るっていた本多正純が失脚した事件には亀姫の意向が絡んでいる、という説もあります。

夫である信昌も、当時としては珍しく、側室を一切置かなかったそうです。あえて「置かなかった」のか、「置けなかった」のか真偽のほどは定かではありませんが、こんなところにも亀姫の強さが伺えますね。

亀姫はその後、夫である信昌と息子たちの早逝を受け、幼くして藩主となった孫たちの後見人として彼らを支え、領地で66歳で死去しています。

最後まで勤めを果たし、その生涯を全うしたんですね。

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まとめ:瀬名姫(築山殿)の生涯は?家康の正妻で最後はどうなる?

瀬名姫(築山殿)の生涯と、最後はどうなるのか詳しく調べてみました。

最後は息子と共に夫である家康に殺されるという悲劇的な生涯でしたが、娘の亀姫が人生を全うしていることは大きな救いです。

しかし、家康がなぜ瀬名姫と息子である信康を殺害したのかという理由には、いろいろな説があることがわかりました。

「どうする家康」では、瀬名姫の人生がどのように描かれるのでしょうか?

2人の夫婦仲は、これからどうなってしまうのでしょう。

「どうする家康」は史実を基にしながらも、先が全く読めない素晴らしい脚本ですよね。

今後の展開を楽しみに待ちたいと思います!

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